ことばと国家(田中克彦、岩波新書) メモ

p3
ロシア語では、ドイツ人のことをネーメツと言う。
これは、ネモーイ(おし)ということばから出ている。
ロシア人からみて、ドイツ人は何やら口を動かしてさえずってはいるが、
それはことばではないと思われていたらしいのである。現代の日常語のなかでも、
ドイツ人は「おし」と呼びつづけられていることは、過去の言語意識の生きた化石と呼んでもいい例であろう。

p53
文法の誤りなどというものは、文法が発明される以前にはまったくなかった。F.マウトナー

p58-59
ネブリーハはこの「文法」の序文の冒頭のところで、国家の興亡と言語の興亡とがいかに深い関係にあるかを述べ、そのことを、「言語はつねに帝国の伴侶である」と表現した。

p70
国家が学校を作ってそこで教えるようになった文法は禁止の体系である。
文法は法典であり、規則であり、そこに指定された以外の可能性をぬりつぶしていく
言語警察制度を自らのなかに作り上げる作業である。
したがって、このような精神のはたらきが、
創作のいとなみとは真反対のところにあることはすぐに理解できる。
アンドレ・マルチネは、「文法家どもがことばを殺す」というはげしい題名の論文を書いている。

p118
フランスが世界に先立って確立し、ひろめられた言語の中央集権化にともなう、少数言語弾圧のシステムは、日本の方言滅ぼし教育の具体的な場所でも、こまかい点までなぞって導入されたものと考えられるふしがある。

琉球のばあいは、

「横一寸縦二寸の木札」を用意して、誰か方言を口にした生徒がいれば、ただちにその札を首にかける。

p120
たまたまオック語(フランスの「方言」もどき)の単語が口にのぼることがあると、
その罪人は、かれの恥を人目にさらすしるしとして、senhalを首にかけられる。中略
この罪人は、だれか級友のうちにオック語を口にした奴がいて、そいつに首環をかけてやれないものかと聞き耳をたてている。これは全体主義国家とか、悪夢のような未来幻想につきものの、内部密告の完ぺきな制度である。
(ジャン「アルザス、ヨーロッパの植民地」)

p121
罰札の利用は、じつはもっと古くまでさかのぼる。しかし、そこでは逆に、フランス語を話した者の首にかけて、ラテン語教育の能率をはかったイエズス会の工夫であったという。

p216
人間の解放は決して言語学だけがやるものではないが、さまざまな社会的形態をとりつつ、人々をそこにしばりつけ、あらゆる差別と偏見を生み出す動機になっている言語を相手にしているかぎり、言語の科学は、その役割から逃れるわけにはいかない。
詳しく言えば、言語は差異しか作らない。
その差異を差別に転化させるのは、いつでも趣味の裁判官として君臨する作家、
言語評論家、言語立法官としての文法家、漢字業者あるいは文法家的精神にこりかたまった言語学者、さらに聞きかじりをおうむ返しにくり返す一部のヒクツな新聞雑誌製作者である。

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