日本語で考える、英語で考える

小学校英語教育が来年度から必修になる。
僕は、「日本語は論理的である」でも書いたが、反対である。
5年生から始めるようであるが、将来的には3年生からにしようとしたいようである。

英語が話せないと国際人になれないし、国際的な理解もできないということらしい。
それでは、英語が話せると国際的になれるのだろうか。
そうではないだろう。
小学生から英語教育を行うと、逆に、日本の国際的レベルは低下するだろう。
(なお、この文章中に3度現れている「国際的」の意味はあまりはっきりしていない。)

ところで、昨年、ノーベル物理学賞を日本人が独占した。
その時の韓国のあるメディアが、「なぜ日本人が基礎科学に強いのか?」という議論をしていた。
簡単にいうと、次の通りである。

「高等教育を、日本では日本語でやるが、韓国では英語でやる。
英語では、深く考えられない。
だから、韓国は国際的な業績が出せない。
これに対して、日本では、高等教育を日本語でやるから、
深く考えられる。だから、国際的な業績が出せる。」

この議論が正しいかどうかはともかく、
英語で考えると深く考えられない、というのは、その通りであろう。
それは、自分で英語で考えて見れば、簡単にわかる。
英語で考えると、かゆいところには手が届いている感じがしない。
何か上滑りな感じがする。
だから、ちゃんと考えるには、母語で考えねばならない。

小学校英語教育は、国語教育の低下につながる。
文部科学省の指導要領には、
「小学校英語教育は、国語のレベルをも向上するように行うべきである。」
というようなことが書いてある。
「べきである。」と書いてあるだけで、それが可能であるかどうかは書いてない。
小学生の総授業時間は決まっているから、英語に時間を割けば、その分だけ、
国語に割ける時間は減る。

母語である日本語のレベルが下がれば、ノーベル物理学賞ではないが、
国際レベルの思考の能力も下がる。
これが、先に述べた
「小学生から英語教育を行うと、逆に、日本の国際的レベルは低下するだろう。」
ということである。

英語だけしゃべれるようになり、その他のことがら(物理学とか)が優れていないと、どうなるのだろうか。
きわめて簡単にいうと、英米人などの英語母語話者に使われるような人間になるということだろう。それは、フィリピン等いくつかの国は英語を公用語にしているが、それらの国で観察されている。

英語で深く考えられるようになるには、英語を母語にする必要がある。
英語を母語にするということは、現在の母語を捨てることを意味する。
(バイリンガルという事例もあるが)

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