私の専門

自分の専門が最近よくわからなくなってきています。

以下は、去年の「本」という講談社が発行している雑誌の2009年8月号に載せた「元人工知能研究者の日本語論」です。
「日本語は論理的である」という本の紹介のための文章です。

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私は、東京電機大学という理工系の大学の情報通信工学科に所属しています。専攻は人工知能ということにしています。「としています」ということは、最近は、言語学、心理学、脳科学、哲学と手を広げてきて、「人工知能」のことをあまりやっていないからです。もちろん、以前は、人工知能の研究をしていました。
ところで、皆さんは「人工知能」をどのようなものだと思いますか?数年前、私は友人から「何を研究しているの?」と聞かれましたので、「人工知能」と答えました。すると、その友人は「ああ、ロボットの研究ね」と言うので、「まあそんなところ」と適当なことを言っておきました。この友人のように、多くの人は、「人工知能」という言葉で、ロボットをイメージするのではないでしょうか。
しかし、人工知能とロボットの研究は別なのです。人工知能は、コンピュータソフトウエアだけで人間の知能を実現しようとするものなのです。すなわち、人工知能には、「人間の知能を実現するには身体は不要である」という大前提があるのです。
ところで、われわれは、なぜ人間が知的だと思うのでしょうか。人間が他の動物と比較して知的である証拠を挙げよと言われたとき、あなたは何を証拠に挙げますか? 数学や言葉を挙げる人が多いのではないでしょうか。
数学の定理を証明するのに、身体は必要でないように思われます。もちろん、数字を見るために目は必要ですし、数字を書くために手は必要ですが、数学の定理を理解するのには、手や足などの身体は必要でないでしょう。だから、数学の定理の自動証明みたいな「人工知能」を考えれば、「人工知能に身体は必要ない」というのは納得できるように思われます。
言葉はどうでしょうか。言葉を理解するのに、身体は必要でしょうか。あなたはどう思いますか?多くの人は、言葉を理解するのに、身体は必要ないと考えているのではないでしょうか。
私も、以前はそう考えていました。しかし、コンピュータに言葉を理解させるにはどうしたらよいかを考えてゆくうちに、コンピュータに想像力を持たさなければならないという結論に達しました。コンピュータに想像力を持たせてコンピュータがイメージを作れるようにせねばならないと考えるようになりました。
ところで、最近ブームの脳科学では、fMRI等を用いて、詳しく脳を知ることができるようになりました。その脳科学によれば、ある身体部位を動かすことを想像すると、その身体部位を実際に動かすときと同じ脳の部分が動くということがわかってきました。たとえば、指を動かすのを想像すると、指を実際に動かすときと同じ脳の部分が動くのです。すなわち、われわれ人間は想像するときに仮想的に身体を動かしているのです。想像は仮想的身体運動なのです。
したがって、コンピュータに(仮想的身体運動である)想像力を持たせるには、コンピュータに身体を持たさなければならないのです。すなわち、人工知能には身体が必要である、これが私が数年前に到達した結論です。私はこれを身体性人工知能と名付けました。この身体性人工知能は、人工知能には身体は必要ないという主流の考えと相容れません。その辺から、私は「人工知能」から離れてゆくことになりました。
身体を持ったコンピュータといえば、それは、ロボットではないの?と思われる人が多いでしょう。確かにその通りなのですが、現在のロボットは、まだまだ未熟で、想像力を持たせるレベルには達していないのです。ロボットに想像力を持たせるような研究は、ロボット研究者からすれば、かなり先の話なのです。
身体性人工知能のためには、想像や言語に関していろいろと研究する必要がありますので、脳科学、心理学、言語学、哲学等に手を広げることになりました。私は、それらの学会に顔を出すようになりました。「手を広げる」と書きましたが、自分の研究にぴったりあった学会がないので、そうせざるを得ないのです。
多くの研究者は、一つ(か二つ)の学会で活動をしているみたいです。私みたいに、あっちにもこっちも顔を出す人間はあまりいないので、一体何者なのかと訝られる場合もあります。学会の研究会等で自己紹介するときには、私は、専攻について「本籍人工知能、現住所不定」と言うことにしています。一種のジプシー状態なのです。
行政に関して、縦割り行政とかよく言われますが、縦割りは行政だけではなく、学問もそうなのではないでしょうか。実にたくさんの学会があります。創価学会とか宇宙真理学会という「学会」もありますが、そういうのを除いてもたくさんあります。たとえば、心理学ですが、皆さんは、いくつ学会があると思いますか? 私が少し前にインターネットで調べたときには、約30あまりの心理学の学会がありました。
学際性の必要は昔から言われています。私の知る範囲では遅々としてではありますが少しずつ進んでいるみたいです。例えば心理学には認知科学という分野があります(この言い方自体に「認知科学は心理学ではない」と異議を唱える人もいるでしょう)が、その認知科学では、人工知能をはじめとする理系の人間が多く活躍しています。ひょっとすると、理系のほうが多いかもしれません。また、心理学の研究者で、従来の行動主義的な研究手法からfMRI等を用いた脳神経科学的な研究手法に移っている人もたくさんいます。
そのfMRIに関しても状況は似ています。fMRIは磁気共鳴現象を用いた脳機能の計測手法ですが、物理学、画像処理、統計学、神経科学等が関係しています。「fMRIは総合格闘技だ」と言った人がいます。fMRIを下から上まで全部分かっている人は多分いないでしょう。
言語学でも、従来の文献的な研究手法に加えて、脳神経科学的な研究手法が散見されるようになりました。私も、身体運動意味論という理論(言葉の意味とは仮想的身体運動であるという理論)とその理論に基づく脳の実験を行なっています。これを実験認知言語学と称しています。
そもそも言語学は一つの学問でありえるのか?と、言語学が一つの学問であることを疑問視する人もいます。すなわち、言語学は総合的な学問であるべきではないかということです。確かに、情報科学系の言語研究(自動翻訳等)や医学系の言語研究(失語症等)も言語の研究です。
さて、今般「日本語は論理的である」という本を刊行することになりました。そこでの議論は、今まで簡単に説明した、言語と想像と脳などに関する研究を基にした日本語論といった感じのものです。
皆さんは、日本語は論理的だと思っていますか?なんとなく日本語を非論理的であると思っている人が多いのはないでしょうか?実際、今まで、実に多くの知識人が日本語に関する悪口を言ってきました。森有礼(初代文部大臣)や志賀直哉は、日本語を廃して、国語を英語や仏語、にしようと唱えました。谷崎潤一郎や萩原朔太郎や森有正(思想家)等々は、日本語に文法がないとか、日本語は非論理的とか主張しました。われわれ日本人は、日本語のことをちゃんと理解せずに悪し様に考えているのではないでしょうか。
ところで、「論理的」であるかないかをどのように診断すべきなのでしょうか。いろいろな診断方法があるでしょうが、もっとも異論の少ないと思われる方法は、数学で使われる形式論理を通して日本語の論理性を診断するという方法ではないでしょうか。
私はこれを「日本語は論理的である」で実行しました。そしてその診断結果は、「日本語は論理的である。日本語の論理は特殊な論理ではない。日本語の論理の基本は(世界標準の)形式論理である」でした。このあたりのことを多くの人にご理解していただいて、自虐的言語観を払拭していただければと思います。

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