Archive for 5月, 2010

ことばと国家(田中克彦、岩波新書) メモ

日曜日, 5月 30th, 2010

p3 
ロシア語では、ドイツ人のことをネーメツと言う。
これは、ネモーイ(おし)ということばから出ている。
ロシア人からみて、ドイツ人は何やら口を動かしてさえずってはいるが、
それはことばではないと思われていたらしいのである。現代の日常語のなかでも、
ドイツ人は「おし」と呼びつづけられていることは、過去の言語意識の生きた化石と呼んでもいい例であろう。 

p53 
文法の誤りなどというものは、文法が発明される以前にはまったくなかった。F.マウトナー

p58-59
ネブリーハはこの「文法」の序文の冒頭のところで、国家の興亡と言語の興亡とがいかに深い関係にあるかを述べ、そのことを、「言語はつねに帝国の伴侶である」と表現した。

p70
国家が学校を作ってそこで教えるようになった文法は禁止の体系である。
文法は法典であり、規則であり、そこに指定された以外の可能性をぬりつぶしていく
言語警察制度を自らのなかに作り上げる作業である。
したがって、このような精神のはたらきが、
創作のいとなみとは真反対のところにあることはすぐに理解できる。
アンドレ・マルチネは、「文法家どもがことばを殺す」というはげしい題名の論文を書いている。

p118
フランスが世界に先立って確立し、ひろめられた言語の中央集権化にともなう、少数言語弾圧のシステムは、日本の方言滅ぼし教育の具体的な場所でも、こまかい点までなぞって導入されたものと考えられるふしがある。

琉球のばあいは、

「横一寸縦二寸の木札」を用意して、誰か方言を口にした生徒がいれば、ただちにその札を首にかける。

p120
たまたまオック語(フランスの「方言」もどき)の単語が口にのぼることがあると、
その罪人は、かれの恥を人目にさらすしるしとして、senhalを首にかけられる。中略
この罪人は、だれか級友のうちにオック語を口にした奴がいて、そいつに首環をかけてやれないものかと聞き耳をたてている。これは全体主義国家とか、悪夢のような未来幻想につきものの、内部密告の完ぺきな制度である。
(ジャン「アルザス、ヨーロッパの植民地」)

p121
罰札の利用は、じつはもっと古くまでさかのぼる。しかし、そこでは逆に、フランス語を話した者の首にかけて、ラテン語教育の能率をはかったイエズス会の工夫であったという。

p216
人間の解放は決して言語学だけがやるものではないが、さまざまな社会的形態をとりつつ、人々をそこにしばりつけ、あらゆる差別と偏見を生み出す動機になっている言語を相手にしているかぎり、言語の科学は、その役割から逃れるわけにはいかない。
詳しく言えば、言語は差異しか作らない。
その差異を差別に転化させるのは、いつでも趣味の裁判官として君臨する作家、
言語評論家、言語立法官としての文法家、漢字業者あるいは文法家的精神にこりかたまった言語学者、さらに聞きかじりをおうむ返しにくり返す一部のヒクツな新聞雑誌製作者である。

ノーベル賞数と英語

日曜日, 5月 30th, 2010

ノーベル賞受賞者数国別ベスト10は、ウイキペディアよると、以下の通りである。

順位 国     受賞数
1 アメリカ    305
2 イギリス    106
3 ドイツ     80
4 フランス    54
5 スウェーデン  30
6 スイス     22
7 ロシア(+ソ連)19
9 日本      15
9 オランダ    15
10 イタリア    14

これから何がわかるであろうか。
アメリカが多いのは、政治経済力をも考慮すれば、それなりに納得できる。
スウェーデンが 30と国力に比べて多いのは、地元だからであろうか。
スイスが多いが、これは、永世中立国というのも関係があるのだろうか。
例えば、アインシュタインは、スイスに入っている。
ロシアが少ないが、これは、冷戦の影響かもしれない。

さて、イギリスが、ドイツやフランスに比べて多い。
僕は、この三国はもう少し拮抗していると思っていた。
イギリスは、第2次世界大戦前が多いのでないかと思ってちょっと調べてみたが、
最近でも多い。
この差は言葉が関係しているのではないだろうか。
英語が実質的な国際語であり、それが、フランスやドイツには不利に働いているのではなかろうか。

僕も、国際会議で、言葉の障壁を何度か味わっているし、
論文を書くにしても、日本語と英語では、大違いである。

日本語で考える、英語で考える

日曜日, 5月 30th, 2010

小学校英語教育が来年度から必修になる。
僕は、「日本語は論理的である」でも書いたが、反対である。
5年生から始めるようであるが、将来的には3年生からにしようとしたいようである。

英語が話せないと国際人になれないし、国際的な理解もできないということらしい。
それでは、英語が話せると国際的になれるのだろうか。
そうではないだろう。
小学生から英語教育を行うと、逆に、日本の国際的レベルは低下するだろう。
(なお、この文章中に3度現れている「国際的」の意味はあまりはっきりしていない。)

ところで、昨年、ノーベル物理学賞を日本人が独占した。
その時の韓国のあるメディアが、「なぜ日本人が基礎科学に強いのか?」という議論をしていた。
簡単にいうと、次の通りである。

「高等教育を、日本では日本語でやるが、韓国では英語でやる。
英語では、深く考えられない。
だから、韓国は国際的な業績が出せない。
これに対して、日本では、高等教育を日本語でやるから、
深く考えられる。だから、国際的な業績が出せる。」

この議論が正しいかどうかはともかく、
英語で考えると深く考えられない、というのは、その通りであろう。
それは、自分で英語で考えて見れば、簡単にわかる。
英語で考えると、かゆいところには手が届いている感じがしない。
何か上滑りな感じがする。
だから、ちゃんと考えるには、母語で考えねばならない。

小学校英語教育は、国語教育の低下につながる。
文部科学省の指導要領には、
「小学校英語教育は、国語のレベルをも向上するように行うべきである。」
というようなことが書いてある。
「べきである。」と書いてあるだけで、それが可能であるかどうかは書いてない。
小学生の総授業時間は決まっているから、英語に時間を割けば、その分だけ、
国語に割ける時間は減る。

母語である日本語のレベルが下がれば、ノーベル物理学賞ではないが、
国際レベルの思考の能力も下がる。
これが、先に述べた
「小学生から英語教育を行うと、逆に、日本の国際的レベルは低下するだろう。」
ということである。

英語だけしゃべれるようになり、その他のことがら(物理学とか)が優れていないと、どうなるのだろうか。
きわめて簡単にいうと、英米人などの英語母語話者に使われるような人間になるということだろう。それは、フィリピン等いくつかの国は英語を公用語にしているが、それらの国で観察されている。

英語で深く考えられるようになるには、英語を母語にする必要がある。
英語を母語にするということは、現在の母語を捨てることを意味する。
(バイリンガルという事例もあるが)

生理学研究所

日曜日, 5月 30th, 2010

岡崎に生理学研究所がある。
名鉄の東岡崎の駅から歩いて10分弱のところにある。
今週、はじめて行った。
東岡崎の駅の改札を出たら、
「桶狭間祭り」とかの声が聞こえてきた。
あの桶狭間が近くにある。
桶狭間には昔行ったことがあるが、
その記念碑がある場所の地形は狭間という感じはしなかった。
一緒に行った友人が言うには、戦いの場所は移動するから、
全部が狭間というわけではないだろうとのことであった。
そうかもしれない。

さて、生理学研究所に行って、motor control 研究会に参加した。
その国際会議所は、緩やかな丘の上にある。
丘からの西(名古屋方面)の眺望はよい。

研究会には、伊藤正男先生も来ていた。
80歳を超えているが、元気である。

僕は、現在、大脳基底核に関心がある。
イメージを生成する際の抑制に関与していると思われるからである。
(この辺のことは、先月出版した「心の発生」(ナカニシヤ出版)に書いてある)
大脳基底核に関する新たな情報は、少しだけど、得られた。

それにしても、泊まった岡崎セントラルホテルはひどかった。
狭いし、変な臭いがした。
排水溝からの臭いであろう。

日本語政策

水曜日, 5月 26th, 2010

日本語は、義務教育では、国語と呼ばれる。
国語教育は、文部科学省の本省の課がしきっている。
これに対して、外国人用の日本語教育は、文部省の文化庁でしきっている。
また、外務省が監督している国際交流基金が、日本語教育を行っている。
日本語の教育には、二つの省が関与しているのである。
一元化が強く望まれる。

国語と言う言葉は、基本的には、日本独自のものであるらしい。
明治維新後に作られた言葉である。
しかし、この「国語」は、第2次世界大戦中には「日本語」に代わった。
東アジアの国、例えばインドネシアで、「国語」と言ったら、
それは、国の言語であるところの「インドネシア語」を意味してしまう。
だから、「国語」は都合が悪いのであった。
当時、「日本語」はニホンゴと読むのではなく、ニッポンゴと読んだらしい。

そして、敗戦で再び「国語」に戻った。
この「国語」という言葉は中国等に輸出されているらしい。
その後、日本の経済成長とともに、多くの外国の人が日本に来るようになった。
だから、「国語」では具合が悪くなった。
21世紀になって再び「日本語」と呼ぶようになった。
今度はニホンゴと読む。

最近、漫画等で、外人が日本語を学ぶようになっているらしい。
また、介護等で、インドネシアやフィリピンの人が日本語を学んでいる。
日本語は難しい。
例えば、日本語は、小難しい漢字が多い。
日本語は、簡単にする必要がある。
少し前に、国語研究所が「簡約日本語」なるものを発表したが、
あまり評判は良くなかったようである。
しかし、日本語が生き残るには、日本語を簡単にする必要がある。
だから、「簡約日本語」の議論は継続すべきである。
そのような試みは、続けられているようである。
しかし、それは、あくまで外人を対象にしている。
外人ばかりでなく、日本人向けにも日本語は簡単にすべきであろう。

インドネシア等の人が介護試験を受けるに、日本語の問題文が障壁になっているが、
単語を簡単するだけではなく、漢字には全てふりがなをふってもよいのではなかろうか。

株価

水曜日, 5月 26th, 2010

最近、株価が下がってきている。
ヨーロッパの金融不安が原因だと言われている。
日経平均はどこまで下がるのだろう。
9000円が一つのめどであるが、最悪は7000円台まで行くかもしれない。
昔、日経平均の予測をHPに出して、9割ぐらいの正解率を出した。
この辺の事情は、情報処理学会誌の解説で書いたことがある。
その予測の手法は「実践データマイニング」(オーム社)という本に書いたが、
この手法が年金運用に使われているという話を最近聞いた。
その手法を改良して、近いうちに、日経平均の予測をHPに出す予定である。

原子力発電

水曜日, 5月 26th, 2010

以前は、原子力発電は危険なので、欧米では廃止や縮小が相次いだ。
日本でも、反原発運動がそれなりに盛んであった。
原発の危険性に対して、日本の政府はその安全性を強調していたので、
そんなに安全と言うなら、ということであろう、
「新宿副都心に原発を」という本も出た。
しかし、日本では原発を作り続けてきた。

最近の環境問題で、原子力発電に関心が集まってきている。
原発ルネッサンスという言葉もある。
このような原発ルネッサンスの中で、
日本の原発技術が、世界で一番優れているようである。
2番手はフランスであろうか。

欧米諸国は、意思決定が迅速であるから、危険だと判断して、
すぐやめてしまったが、日本は、意思決定が遅いので、やめなかった。
意思決定の遅さがさいわいしたのである。
こういうことも世の中ではある。

キリンシティ VS ライオン

土曜日, 5月 8th, 2010

僕は、時々、キリンシティとライオンに行く。
キリンシティはその名の通りキリンが経営しているが、ライオンはサッポロが経営している。
キリンシティは、食事は気合が入っているが、ビールは、3度つぎとかいって時間がかかるわりには、うまくない。
ライオンは、ビールはうまいが、食事があまりよくない。
キリンとサッポロが一緒になってくれて、ライオンのビールを飲みながらキリンシティの食事が食べられるようになればよいのだが。

しばらく

土曜日, 5月 8th, 2010

しばらく、ブログへの書き込みをサボってしまった。1ヵ月半くらいであろうか。なんとなく忙しかった。最近面白かったのは、上海万博のPRソングが、岡本真夜のぱくりであったことだ。聞き比べてみると、ほとんど同じである。ぱくるにしても、少しはばれないようにしたら、と思ってしまう。僕は、岡本真夜を知らなかった。この騒ぎで知った。「そのままの君でいて」は良い曲だと思うし、上海万博の曲も良いアレンジだと思う。岡本真夜の「そのままの君でいて」の歌い方は、昔のほうが良いと思う。最近の歌い方は、演歌みたいなこぶしもどきが入っていて、曲の感じにそぐわないと思う。