Archive for 2月, 2010

神田から北千住へ

木曜日, 2月 25th, 2010

東京電機大学は、千代田区神田錦町にある。大手町まで、300メートルほどのところで、最も東京駅に近い大学である。しかし、すごく狭い。ほとんど庭らしきものはない。建て替えも検討していたのだが、あと2年位で、北千住に引っ越すことになった。場所は、北千住の駅前の専売公社のアパートの跡地である。そこに引っ越すと、敷地は約2倍になるが、各教師の部屋の広さは変わらない。庭が広くなるのである。
神田の環境はすばらしい。たとえば、本が欲しければ、神田の書店街にゆけばよい。古書でも、簡単に手に入る。 北千住に行くと、そうは行かない。

人生最初の記憶

水曜日, 2月 24th, 2010

僕の本籍は、中野区本町6-64である。この番地は現在はない。青梅街道と中野通りの交差点のそばである。この地での記憶はまったくない。生まれてしばらくして、杉並区和田本町(現在の和田)に引っ越した。区は、中野から杉並に変わるが、隣の町であり、歩いて数分の距離である。この一軒家での記憶が最初の記憶である。家の裏の金網に手をかけて立っていて、隣の下の空き地で遊んでいる子供を見ているという記憶である。「下」と書いたは、家の裏手が少し段差になっていたからである。1メートルくらいの段差であった。当時の自分の身長は数10センチであったから、1メートルくらいの段差でも、十分「下」なのであった。たぶん、一人でその金網のところまで歩いて行ったのであろう。3歳位くらいのことである。
犬を飼っていたと親から聞かされたが、これはまったく記憶にない。その犬は程なく死んでしまったらしい。
その家の前の道は、車一台が通ればいっぱいになってしまう程度の幅であった。その道を家三軒ほど右に行くと、四つ角になっている。そのまままっすぐ行く道は、舗装が途切れ、私道みたいになっていて、少し曲がりながらゆるやかに登ってゆく道であった。その角の左手の道は、下り坂であった。竹らしき木が茂り涼しげな感じがする坂であった。そして、その角の右手の道は下り坂気味の道であり、すぐバス通りに出た。バス通りと言っても、かろうじてバスが通れるくらいの幅の道である。数件商売をしている店があった。そっちの方向が賑わいの方向であった。
以前、高校訪問でその家のそばまで行ったときに、その高校から中野駅まで歩いた際に、そのあたりを通ったが、50年ほど前の自分の記憶どおりであった。子供たちが遊んでいた空き地がなくなっていたが、その他はほぼ同じであった。
家の前は寺であった。寺の墓地であった。墓は塀で見えないが、一般的には、あまり良い環境ではない。
4歳のころに、名古屋に引っ越した。親は家を売ったのだが、買い手は、立正佼成会の人であったらしい。「大聖堂」がそばなので、その家が気に入ったらしい。立正佼成会の聖堂が家の西南にあり、家から(たぶん)見える。

天皇

月曜日, 2月 22nd, 2010

先般、亀井静香が、天皇に「住まいを東京ではなく、京都か広島にしたらどうでしょうか」みたいなことを言ったらしい。京都はわかるが、なぜ、広島なのだろうか。原爆の地で、平和をアピールするということなのかと思ったが、しばらくしてから、広島は、亀井静香の地元であることに気づいた。それで、広島といったのであろうか。
僕も、東京の旧江戸城ではなく、京都御所の方が良いと思う。
最近、体調面のニュースを聞くことが多くなった。適切な時期に、天皇から法皇や上皇になり、東京から京都に居を移すというはどうであろうか。
まずは、京都御所を、別荘として使うということも考えられる。

パスカル

月曜日, 2月 22nd, 2010

僕は、パスカルが好きです。パスカルとは、あのパンセを書いた人です。パンセの中でもっとも有名なのは「人間は考える葦である」ですが、僕が好きなのは、「二つの無限」です。ブランシュビック版では72番目で、パンセの中で最も長い章です。その一部を紹介しましょう。

われわれは確実に知ることも、全然無知であることもできないのである。われわれは広漠たる中間に漕ぎいでているのであって、常に定めなく漂い、一方の端から他方の端へと押しやられている。われわれがどの極限に自分をつないで安定させようとしても、それは揺らめいて、われわれを離れてしまう。そしてもし、われわれがそれ追って行ゆけば、われわれの把握からのがれ、われわれから滑りだし、永遠の遁走でもって逃げ去ってしまう。何ものもわれわれのためにとどまってはくれない。それはわれわれにとって自然な状態であるが、しかもわれわれの性向に最も反するものである。われわれはしっかりした足場と、無限に高くそびえ立つ塔を築くための究極の不動な基盤を見いだしたいとの願いに燃えている。ところが、われわれの基礎全体がきしみだし、大地は奈落の底まで裂けるのである。

パスカルから約1世紀後のフランスは、進歩的な啓蒙思想家(ディドロやダランベールたち)が主流になります。ラプラスは、ナポレオンに本を献呈したときに、ナポレオンから「あなたの本は神について書いてないが」と言われて「われわれは神なしでやってゆけます」と答えたらしいです。これは、当時の思想を端的に示すエピソードです。

その啓蒙思想家が、上のパンセの文章を読んで、パスカルの頭に欠陥があると言ったそうです。

しかし、その後の状況を考えると、僕には、パスカルの方が正しいように思わます。欠陥があるのは、パスカルの頭ではなく、ディドロやダランベールたちの頭のほうではないでしょうか。

土手の桜?

金曜日, 2月 19th, 2010

今朝、中央線に乗っていたら、桃色の花が木に咲いているのが目に入った。水道橋御茶ノ水間の、神田川の北側の土手である。桜ではないし、梅でもなさそうだった。何の花なのだろうか?それにしても、中央線は、最近、ほとんど毎日、何だかんだ言って、遅れる。JR西日本のあの事件以降、遅れてなにが悪い、乗客の安全を第一にしているんだから、少々遅れるのは仕方ないだろうって感じだ。

イエズス会

金曜日, 2月 19th, 2010

上智大学はキリスト教系の大学です。これは、多くの人が知っていると思います。上智大学にクルップホールというのがあるのを知っている人は少ないのではないでしょうか。クルップはドイツの兵器産業の会社です。クルップは戦車や大砲などを作ってきました。私の友人が「上智大学のクルップホールの地下には、クルップ製の大砲が皇居を向いて置いてあり、いったん事があれば、発砲する」と言っていました。なんで、上智大学がそんなことをする必要があるのでしょうか。
上智大学は、イエズス会が設立したのです。そのイエズス会は、安土桃山時代、日本占領の陰謀を持っていました。
イエズス会は、まだ日本占領の陰謀を捨てていないのでしょうか。上智大学は、世間を欺くための仮面で、実は、イエズス会の日本占領の軍事拠点なのでしょうか。
クルップホールに関しての情報を教えてくれた友人は、九州のイエズス会系の幼稚園に通っていたということです。その幼稚園では、キャンプのことを野営と言っていたらしいです。

私の専門

金曜日, 2月 19th, 2010

自分の専門が最近よくわからなくなってきています。

以下は、去年の「本」という講談社が発行している雑誌の2009年8月号に載せた「元人工知能研究者の日本語論」です。
「日本語は論理的である」という本の紹介のための文章です。

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私は、東京電機大学という理工系の大学の情報通信工学科に所属しています。専攻は人工知能ということにしています。「としています」ということは、最近は、言語学、心理学、脳科学、哲学と手を広げてきて、「人工知能」のことをあまりやっていないからです。もちろん、以前は、人工知能の研究をしていました。
ところで、皆さんは「人工知能」をどのようなものだと思いますか?数年前、私は友人から「何を研究しているの?」と聞かれましたので、「人工知能」と答えました。すると、その友人は「ああ、ロボットの研究ね」と言うので、「まあそんなところ」と適当なことを言っておきました。この友人のように、多くの人は、「人工知能」という言葉で、ロボットをイメージするのではないでしょうか。
しかし、人工知能とロボットの研究は別なのです。人工知能は、コンピュータソフトウエアだけで人間の知能を実現しようとするものなのです。すなわち、人工知能には、「人間の知能を実現するには身体は不要である」という大前提があるのです。
ところで、われわれは、なぜ人間が知的だと思うのでしょうか。人間が他の動物と比較して知的である証拠を挙げよと言われたとき、あなたは何を証拠に挙げますか? 数学や言葉を挙げる人が多いのではないでしょうか。
数学の定理を証明するのに、身体は必要でないように思われます。もちろん、数字を見るために目は必要ですし、数字を書くために手は必要ですが、数学の定理を理解するのには、手や足などの身体は必要でないでしょう。だから、数学の定理の自動証明みたいな「人工知能」を考えれば、「人工知能に身体は必要ない」というのは納得できるように思われます。
言葉はどうでしょうか。言葉を理解するのに、身体は必要でしょうか。あなたはどう思いますか?多くの人は、言葉を理解するのに、身体は必要ないと考えているのではないでしょうか。
私も、以前はそう考えていました。しかし、コンピュータに言葉を理解させるにはどうしたらよいかを考えてゆくうちに、コンピュータに想像力を持たさなければならないという結論に達しました。コンピュータに想像力を持たせてコンピュータがイメージを作れるようにせねばならないと考えるようになりました。
ところで、最近ブームの脳科学では、fMRI等を用いて、詳しく脳を知ることができるようになりました。その脳科学によれば、ある身体部位を動かすことを想像すると、その身体部位を実際に動かすときと同じ脳の部分が動くということがわかってきました。たとえば、指を動かすのを想像すると、指を実際に動かすときと同じ脳の部分が動くのです。すなわち、われわれ人間は想像するときに仮想的に身体を動かしているのです。想像は仮想的身体運動なのです。
したがって、コンピュータに(仮想的身体運動である)想像力を持たせるには、コンピュータに身体を持たさなければならないのです。すなわち、人工知能には身体が必要である、これが私が数年前に到達した結論です。私はこれを身体性人工知能と名付けました。この身体性人工知能は、人工知能には身体は必要ないという主流の考えと相容れません。その辺から、私は「人工知能」から離れてゆくことになりました。
身体を持ったコンピュータといえば、それは、ロボットではないの?と思われる人が多いでしょう。確かにその通りなのですが、現在のロボットは、まだまだ未熟で、想像力を持たせるレベルには達していないのです。ロボットに想像力を持たせるような研究は、ロボット研究者からすれば、かなり先の話なのです。
身体性人工知能のためには、想像や言語に関していろいろと研究する必要がありますので、脳科学、心理学、言語学、哲学等に手を広げることになりました。私は、それらの学会に顔を出すようになりました。「手を広げる」と書きましたが、自分の研究にぴったりあった学会がないので、そうせざるを得ないのです。
多くの研究者は、一つ(か二つ)の学会で活動をしているみたいです。私みたいに、あっちにもこっちも顔を出す人間はあまりいないので、一体何者なのかと訝られる場合もあります。学会の研究会等で自己紹介するときには、私は、専攻について「本籍人工知能、現住所不定」と言うことにしています。一種のジプシー状態なのです。
行政に関して、縦割り行政とかよく言われますが、縦割りは行政だけではなく、学問もそうなのではないでしょうか。実にたくさんの学会があります。創価学会とか宇宙真理学会という「学会」もありますが、そういうのを除いてもたくさんあります。たとえば、心理学ですが、皆さんは、いくつ学会があると思いますか? 私が少し前にインターネットで調べたときには、約30あまりの心理学の学会がありました。
学際性の必要は昔から言われています。私の知る範囲では遅々としてではありますが少しずつ進んでいるみたいです。例えば心理学には認知科学という分野があります(この言い方自体に「認知科学は心理学ではない」と異議を唱える人もいるでしょう)が、その認知科学では、人工知能をはじめとする理系の人間が多く活躍しています。ひょっとすると、理系のほうが多いかもしれません。また、心理学の研究者で、従来の行動主義的な研究手法からfMRI等を用いた脳神経科学的な研究手法に移っている人もたくさんいます。
そのfMRIに関しても状況は似ています。fMRIは磁気共鳴現象を用いた脳機能の計測手法ですが、物理学、画像処理、統計学、神経科学等が関係しています。「fMRIは総合格闘技だ」と言った人がいます。fMRIを下から上まで全部分かっている人は多分いないでしょう。
言語学でも、従来の文献的な研究手法に加えて、脳神経科学的な研究手法が散見されるようになりました。私も、身体運動意味論という理論(言葉の意味とは仮想的身体運動であるという理論)とその理論に基づく脳の実験を行なっています。これを実験認知言語学と称しています。
そもそも言語学は一つの学問でありえるのか?と、言語学が一つの学問であることを疑問視する人もいます。すなわち、言語学は総合的な学問であるべきではないかということです。確かに、情報科学系の言語研究(自動翻訳等)や医学系の言語研究(失語症等)も言語の研究です。
さて、今般「日本語は論理的である」という本を刊行することになりました。そこでの議論は、今まで簡単に説明した、言語と想像と脳などに関する研究を基にした日本語論といった感じのものです。
皆さんは、日本語は論理的だと思っていますか?なんとなく日本語を非論理的であると思っている人が多いのはないでしょうか?実際、今まで、実に多くの知識人が日本語に関する悪口を言ってきました。森有礼(初代文部大臣)や志賀直哉は、日本語を廃して、国語を英語や仏語、にしようと唱えました。谷崎潤一郎や萩原朔太郎や森有正(思想家)等々は、日本語に文法がないとか、日本語は非論理的とか主張しました。われわれ日本人は、日本語のことをちゃんと理解せずに悪し様に考えているのではないでしょうか。
ところで、「論理的」であるかないかをどのように診断すべきなのでしょうか。いろいろな診断方法があるでしょうが、もっとも異論の少ないと思われる方法は、数学で使われる形式論理を通して日本語の論理性を診断するという方法ではないでしょうか。
私はこれを「日本語は論理的である」で実行しました。そしてその診断結果は、「日本語は論理的である。日本語の論理は特殊な論理ではない。日本語の論理の基本は(世界標準の)形式論理である」でした。このあたりのことを多くの人にご理解していただいて、自虐的言語観を払拭していただければと思います。

卒論 国語教育

火曜日, 2月 16th, 2010

この時期は、学生の文章(卒論や修論)をたくさん読まねばならない。文章がなってないのが多い。高校までの国語の授業はどうなっているのだろうかと思ってしまう。
私の場合、国語の授業では、作文の訓練よりも、文学作品の鑑賞の方が記憶に残っている。たとえば、高校の国語の時間に、萩原朔太郎の詩を詠んだ。

わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。
嗚呼また都を逃れ来て
何所の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未来は絶望の岸に向へり。
砂礫のごとき人生かな!
われ既に勇気おとろへ
暗憺として長なへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り行き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤怒を烈しくせり。

この詩は、萩原朔太郎が離婚したときのものだ。
離婚経験どころか、恋愛経験もあまりない高校生に、このような詩を鑑賞させる時間があるのなら、他にやらせるべきことがあるだろう。

アメリカの准教授が殺人

月曜日, 2月 15th, 2010

アメリカのアラバマ大学で女性の准教授が、銃で3人を殺した。教職員会議で発砲したそうな。専門は神経科学。テニュア(終身在職権)が取れなかったのが動機とのこと。
アメリカでは、よく銃の乱射事件が起こる。銃の所持を禁止すればよさそうなものだが、銃は身を守るために必要だとか言うが、そうだろうか。 産業的な理由もあるかと思う。岸田秀ではないが、銃でアメリカを「侵略」したという歴史的事実に対する「負い目」が、彼らの精神の底に存在しているのではなかろうか。

平成の脱税王

土曜日, 2月 13th, 2010

国会で、与謝野馨が、鳩山首相を「平成の脱税王」と称したのは面白かった。この発言を聞いて、祖父母、与謝野鉄幹・晶子の影がちらついた、というのは少し大げさか。鳩山首相が「脱税王」なら、小沢幹事長は「不動産王」といったところであろうか。
鳩山にしろ、小沢にしろ、出自は自民党田中派である。こういう輩が仕切っている民主党に将来はあるのだろうか。