脱亜論
土曜日, 8月 6th, 2011以下は、福沢諭吉の「脱亜論」(明治18年)の一部である。
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我日本の国土は亜細亜の東辺に在りといえども、その国民の精神は既に亜細亜の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るにここに不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云う。この二国の人民も古来、亜細亜流の政教風俗に養わるゝこと、我日本国民に異ならずといえども、その人種の由来を殊にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものあるか、日支韓三国相対し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、この二国の者共は一身に就きまた一国に関して改進の道を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、その古風旧慣に恋々するの情は百千年の古に異ならず、この文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云い、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、その実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を払うて残刻不廉恥を極め、なお傲然として自省の念なき者の如 し。
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この記事が書かれてから、約120年経ったが、最近の中国の高速鉄道に関連する事件をはじめとして、中国・韓国の事件を見ると、「一より十に至るまで外見の虚飾のみを事とし」とか「道徳さえ地を払うて残刻不廉恥を極め、なお傲然として自省の念なき」あたりは、今でもあまり変わっていないのかなと思う。
ラッセル、共産主義、キリスト教
土曜日, 8月 21st, 2010ラッセルは、共産主義に賛同していたが、ソ連に行って、生の共産主義(社会主義)社会を見て、はげしく失望したらしい。
そこで、彼は、共産主義はキリスト教徒と同型であると考えた。
キリスト教 共産主義
イエス マルクス
パウロ レーニン
教会 共産党
キリスト教徒 共産党員
地獄 資本主義社会
天国 共産主義社会
復活 革命
原罪 疎外
悪魔 資本家
結局、共産主義は広義の宗教なのだ、だから、キリスト教のような従来の宗教を弾圧する。共産主義は、communismで、仏教は、buddismである。同じ ism である。
英米人には、共産主義は、仏教と同じように「宗教」なのだ。
これは、逆に、仏教が、宗教ではなく、思想・哲学ということなのかもしれない、英米人にとっては。
仏教の場合、共産主義との対応はどうなるだろう。
仏教 共産主義
釈迦 マルクス
? レーニン
教団 共産党
教徒 共産党員
地獄 資本主義社会
天国 共産主義社会
? 革命
? 疎外
? 資本家
仏教をもっと知れば、共産主義との対応は取れるのかも知れない。
検閲
金曜日, 8月 20th, 2010下で、共産主義にふれたので、そのついで。
家に、戦前に出版されたマルクスエンゲルス全集がある。これをパラパラっとめくると、伏字が見つかる。 何を伏字にしたかを知りたかったので、戦後の伏字なしの本で調べたことがある。いくつか見たが、どれもこれもたいしたことは書いてない。何でこんなのを伏字にする必要があったのだろうかと疑問に思った。で、私の答え。 たぶん、特高の検閲の担当者は、何が書いてあるかあまりよくわからないが、上司から、たとえば、「今日は、伏字のノルマは1000字!」とか命令されたので、しかたなしに、適当に文章を選んで伏字にしたのではなかろうか。上司だって、その伏字が適切かどうかなんてわからない。 伏字にすることだけに意義があったのだろう。
インターネットによる共産主義の到来?
金曜日, 8月 20th, 201020世紀に、トロツキーが世界同時革命を提唱したが、できなかった。ま、ずいぶん観念的な話である。その必然性もないし、実行可能性の裏づけもない。しかし、21世紀の今、その世界的同時性は、現実的なものになりつつある。一つは、世界経済の一体化である。昔は、多くの国の経済は独立性が高かったので、貿易を擾乱として扱えたが、今や、多くの国の経済が世界経済の中に一部分として組み込まれているので独立性はきわめて低く、貿易を擾乱としては扱えない。世界全体が一つの経済になりつつあるから、上部構造と下部構造の適切な単位は国ではなく世界全体なのである。だから、もし革命をやりたいのなら、それは世界レベルでやらねばならない。これは必然性に関するものである。もう一つは実行可能性だが、同時性の確保は昔はできなかったが、今は、インターネットでできる。
このインターネットは、情報の無産化を促進している。情報発信が大資本しかできなかった昔に比べれば、今では、個人が情報発信できる。CDやビデオは売れなくなってきている。
さっき、以下のHPを見つけた。
インターネットは原爆以来の最も危険な発明品だそうだ。
http://www.nikkei.co.jp/category/offtime/eiga/music/article.aspx?id=MMGEzw000020082010
パスカル
月曜日, 2月 22nd, 2010僕は、パスカルが好きです。パスカルとは、あのパンセを書いた人です。パンセの中でもっとも有名なのは「人間は考える葦である」ですが、僕が好きなのは、「二つの無限」です。ブランシュビック版では72番目で、パンセの中で最も長い章です。その一部を紹介しましょう。
われわれは確実に知ることも、全然無知であることもできないのである。われわれは広漠たる中間に漕ぎいでているのであって、常に定めなく漂い、一方の端から他方の端へと押しやられている。われわれがどの極限に自分をつないで安定させようとしても、それは揺らめいて、われわれを離れてしまう。そしてもし、われわれがそれ追って行ゆけば、われわれの把握からのがれ、われわれから滑りだし、永遠の遁走でもって逃げ去ってしまう。何ものもわれわれのためにとどまってはくれない。それはわれわれにとって自然な状態であるが、しかもわれわれの性向に最も反するものである。われわれはしっかりした足場と、無限に高くそびえ立つ塔を築くための究極の不動な基盤を見いだしたいとの願いに燃えている。ところが、われわれの基礎全体がきしみだし、大地は奈落の底まで裂けるのである。
パスカルから約1世紀後のフランスは、進歩的な啓蒙思想家(ディドロやダランベールたち)が主流になります。ラプラスは、ナポレオンに本を献呈したときに、ナポレオンから「あなたの本は神について書いてないが」と言われて「われわれは神なしでやってゆけます」と答えたらしいです。これは、当時の思想を端的に示すエピソードです。
その啓蒙思想家が、上のパンセの文章を読んで、パスカルの頭に欠陥があると言ったそうです。
しかし、その後の状況を考えると、僕には、パスカルの方が正しいように思わます。欠陥があるのは、パスカルの頭ではなく、ディドロやダランベールたちの頭のほうではないでしょうか。