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吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街

日曜日, 8月 25th, 2013

以下は、日本経済新聞の記事
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2013/8/23

町田市は神奈川県だと勘違いする人もいるが、東京都だ。東急田園都市線「すずかけ台」駅の近くに境界を示す看板があった。看板の手前は神奈川県横浜市緑区
大学時代、友人に「東京を出て多摩川を越えたら神奈川県」と教えられたことがある。西日本出身者としては素直に信じていたのだが、実際に当てはまるのは一部だけ。中流域では「多摩川を越えても東京都」だ。しかしかつては違った。八王子や町田、多摩川の手前にある調布や成城、吉祥寺も神奈川県だった。なぜ東京になったのか。事情を探っていくと、長年の課題である水源問題と、複雑な政治事情が浮かび上がってきた。
■多摩が東京になって120年
「今年は多摩地区が東京府(当時)に移管されてからちょうど120年にあたる記念の年です。いろいろイベントを計画しています」。東京都総務局行政部の担当者は意気込む。
都では2014年3月末まで「多摩の魅力発信プロジェクト」を展開している。今週末(8月24、25日)には立川市にある昭和記念公園で「多摩フェスティバル」を行う予定だ。多摩の地形・文化に関する講演や、アニメと縁が深い地域の特色を生かして、声優を招いたトークショーなどを企画している。
一般的に多摩地区とは、東京23区より西側に位置するエリアのことを指す。「東京都下」「三多摩」などと呼ばれることもある。
「三多摩」の名はかつて「北多摩郡」「西多摩郡」「南多摩郡」だったことに由来する。ただし世田谷区の旧砧(きぬた)村なども含まれており、必ずしも現在の境界線とは一致しない。北多摩郡にあった砧村は現在、成城や喜多見となっている。
財団法人東京市町村自治調査会が中心となってまとめた「多摩百年のあゆみ」(多摩百年史研究会編著)によると、この地域は明治維新後、「品川県」「韮山(にらやま)県」「入間(いるま)県」「西端(にしばた)県」などに分割された。西端県は愛知県碧南市を中心とした県だった。1871年(明治4年)に実施された廃藩置県の後、三多摩の大半は神奈川県に所属することになった。

三多摩が東京府に移管されたのは1893年(明治26年)のこと。なぜ、20年以上もたってから再編されたのか。
国立公文書館で当時の資料を探してみた。
移管を決めた「東京府神奈川県境域変更ニ関スル法律案」は、その理由について「水路ノ関係」だと記す。東京府を流れる上水道の水源が多摩地区にあり、管理のためには東京府に移管した方がよい、という趣旨だった。
本当にそうなのか。だったらなぜ最初から東京府に含めなかったのか。
移管を決めた「東京府神奈川県境域変更ニ関スル法律案」には、神奈川県知事も不便を感じている、という記述があった(国立公文書館所蔵)
三多摩の移管について、踏み込んで書いた資料は多くはない。東京府がまとめた「東京府史」にも事実関係が簡潔に書いてあるだけだ。
東京都立図書館で尋ねたところ、この問題について詳しく書かれた文書が2つ見つかった。東京都がまとめた「水道問題と明治26年三多摩編入始末」と、神奈川県が書いた「神奈川県史」だ。それぞれ東京都、神奈川県側からの見方を代表している。
1952年(昭和27年)、東京都総務局文書課が書き上げた「三多摩編入始末」は、この問題に焦点を絞って書いた貴重な文書だ。
著者である川崎房五郎は、市域拡大など他の問題については経緯を記した書物が出版されているのに、移管問題については書かれたものがないと指摘。次のような疑問を呈している。
「三多摩地方の編入ということは、東京都の歴史の上から見ても、その行政上の範囲が一番広くなった大きな事件であるのに、何故当時『府域拡張史』とか『三多摩編入史』とかいうものが出なかったであろうか」
その上でこう推察する。
「恐らくこの事件が余りに政治的な問題を含んでいて、東京政界の種々な事情を反映して、府当事者がその当時の事情を明らかにし、出版することを遠慮したのではないか」
多摩の所属を巡って、どんな「事情」があったのか。2つの資料を読み解いてみよう。
■東京でコレラ流行、水源管理が問題に
東京都の文書は、移管に至った最大の理由は水道問題だった、と結論づけている。様々な思惑が絡み政治問題化したものの、三多摩は東京に移管するのが当然の帰結だとも指摘する。

東京都羽村市の「羽村取水堰」には、玉川上水を開削した玉川兄弟の像があった
明治時代前半の東京では、上水道の衛生面が大きな問題となっていた。当時、東京の上水道を担ってきたのが玉川上水。江戸時代に庄右衛門、清右衛門兄弟(後に玉川姓を賜る)が開削した水路だ。
玉川上水は多摩川の水を現在の羽村市にある羽村取水堰(せき)から分岐させ、四谷大木戸(現・四谷4丁目交差点付近)にあった「水番所」を経て市中へと引き込んでいた。
1886年(明治19年)、玉川上水への不安が一気に高まる事件が起こる。コレラが大流行したのだ。しかも「多摩川上流でコレラ患者の衣服を洗濯した」とのうわさが広まった。本当なら羽村から玉川上水を伝って東京の水道が汚染されてしまう。
実際に洗濯したのは多摩川の支流で、水道水に影響はなかった。しかしこの事件が「多摩の東京移管」機運を高めることとなった、と東京都は記す。当時、多摩川の上流は神奈川県に属していたが、見回りの強化などのためにも東京府が直接管理すべきだ、となったのだ。
この見方に真っ向から異を唱えるのが1980年(昭和55年)に神奈川県が編さんした「神奈川県史」だ。
吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街

■「南多摩まで移管する必要はなかった」 神奈川県が指摘
三多摩の東京移管は水源の管理が理由とする東京都の説明に対し、「神奈川県史」はこう反論する。
「これらの理由は東京府市部の行政上の説明としては一応筋が通っているが、これが通るのは西・北多摩郡のみである。南多摩郡の移管理由には東京府の行政上の要請は全くなかった」
玉川上水の水源は西・北多摩郡にあった。南多摩郡まで移管する必要はなかったではないか、との主張だ。南多摩郡とは、現在の町田市、八王子市、多摩市、稲城市、日野市のことだ。
さらには水源問題を理由にした多摩地区の東京への移管要請はコレラ発生以前からあり、何度も政府が退けてきたこと。そのときでさえ、南多摩地区は除外されてきたことなどを指摘し、南多摩も含めた移管は水源問題よりも別の政治的思惑が大きかった、と結論づけている。
「東京府神奈川県境域変更に関する法律案」に添付されていた地図。三多摩の境界がよく分かる(国立公文書館所蔵)
■多摩で隆盛の自由党を「切り離す」 神奈川県知事の思惑
ではこの「政治的思惑」とは何か。そこで登場するのが当時の神奈川県知事、内海(うつみ)忠勝だ。
1892年(明治25年)、第2回となる衆議院選挙が行われた。神奈川県に属していた三多摩では当時、板垣退助らが設立した自由党の勢力が強く、選挙では2議席を独占した。板垣が「多摩は自由党の砦(とりで)」と表現するほど、多摩では自由党が支持を集めていた。
この選挙で内海知事は自由党に圧力をかけたといわれ、多摩の自由党は猛烈に反発。県議会に対し内海知事の罷免を要求した。

移管を決めた当時の総理大臣は伊藤博文だった(国立公文書館所蔵)
「神奈川県史」によると、県議会で多摩出身の自由党議員に手を焼いた内海知事は政府に対して三多摩の移管を強く要請した。東京府では自由党の勢力は弱く、移管によって影響力をそぐことができるとの判断だった。当時の知事は政府が任命しており、反権力色の強い自由党に対しては否定的だったようだ。
これに対し東京府知事は当初、西多摩と北多摩のみの移管を政府に上申していた。しかし内海知事は東京府に宛てた書簡の中で、歴史的に三多摩はつながりが深いため、南多摩を切り離すことは民意に背く、と主張したという。この意見を受け、東京府は南多摩を含めた移管へとシフトしていく。
■西多摩・南多摩では激しい抗議運動 北多摩では東京移管に賛成論も

東京都羽村市の羽村取水堰。ここから玉川上水に分岐する。現在は東京都の水源は利根川水系が8割で多摩川水系は2割となっている
こうした一連の内海知事の動きに対し、「神奈川県史」は厳しく批判する。
「民意を一度も確かめたこともないのに『民意ニ適サザル』と表することは詭弁(きべん)も甚だしく、選挙区にしても行政上の積極的な理由になっていない」
実際、西多摩、南多摩では猛烈な反対運動が起こり、衆議院に対し48の村が連盟で抗議文を送った。役場を閉鎖する抗議運動も相次いだ。
ただし、激しい抗議は西多摩と南多摩が中心で、北多摩では賛成の声も多かったようだ。甲武鉄道(現・JR中央線)の開通で北多摩は東京に近くなり、東京への親近感を強める住民が多かった。
1893年、反対運動が続くなか、三多摩の東京府への移管法案はわずか10日の審議で成立する。自由党内部でも問題への温度差があり、国政レベルでは反対は大きなうねりとはならなかった。
ちなみに内海知事は法案成立の翌月には神奈川県知事を辞し、2年後の1895年には大阪府知事に転じた。一連の混乱が影響したのだろうか。
■東京移管後、神奈川県に戻す案や独立案が浮上
多摩の帰属を巡っては、その後何度も変更案が浮上した。
1896年(明治29年)には「武蔵県」構想が飛び出した。三多摩だけではなく、現在の大田区、世田谷区、豊島区、足立区、江戸川区も含めた地域を1つの県とするプランだ。現在の中央区や千代田区などの東京都心部を東京市として、その周りをすべて取り囲む。名称は「千代田県」にするという案もあった。

玉川上水は羽村から四谷大木戸まで引かれ、ここから市中へ分配されていった。かつての「水番屋」付近にはこれを記念した「水道の碑」が建っている(新宿区)
1923年(大正12年)には鳩山一郎が三多摩を神奈川県に戻す案を提出。1924年(大正13年)には「多摩県」として独立するプランも出た。
いずれも水源地は警察が管理すればいい、としており、水源問題と行政問題とを切り離している。こうした経緯を見る限り、三多摩の東京移管には水道問題よりも政治的思惑の方が大きく働いたと考えるのが自然だ。
一方、多摩を東京から切り離す一連の構想に対して、多摩の住民からは反対の声が強かった。東京府に組み込まれたことで、経済的に発展していたことが大きな理由だったようだ。鉄道も道路も東京に向けて延びていき、政治情勢も住民感情も、10年ほどで大きく変わった。
1943年(昭和18年)、東京府と東京市は廃止され、東京都が生まれた。東京市は35区の行政区となり、三多摩は東京にとどまった。

玉川上水が流れてきた道は現在、甲州街道と新宿通りの分岐点となっている
多摩百年史研究会の原嘉文氏は「多摩百年のあゆみ」の中で、神奈川から東京への移管によって、「多摩は膨張する東京の受け皿となった」と指摘する。
東京の水源を管理し、人口増にはニュータウン建設で応じる。軍事施設や刑務所など都心部で抱えきれない施設をも受け入れてきた。
多摩地区の人口は現在、400万人を超えている。多摩が神奈川県だったら、あるいは独立していたら、今ごろどうなっていたのだろうか。(河尻定)
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町田あたりは神奈川県だったが、自由民権運動がはげしいので、神奈川県がいやがって、東京都に編入されたというようなことは聞いたことがあったが、吉祥寺あたりまで、神奈川県であったのは知らなかった。

8月15日の玉音放送

金曜日, 8月 20th, 2010

私の知り合いの老人に、扇島の高射砲の陣地でB29を撃っていた人がいる。時節柄、終戦の話しになった。彼は、8月15日、整列させられ玉音放送を聴かされたが、何を言っているのかわからなかった。しかし、ななめ後ろの年長の上等兵が(小さく)手をたたいて「良かった」と言っているのを聞いて、負けたんだとわかったそうだ。

彼は、米兵に高射砲の陣地の引き継ぎをした。
高射砲を見た米兵は、「よくこんなので、B29を3機も落とせたな」と言ったそうである。
その高射砲は、30年位前のフランス製だったそうだ。

以下には、朝鮮からの引き上げの動画がある。

http://www.nikkei.com/video/?bclid=67379759001&bctid=565622089001

戦車の解体の様子も伺える。

清洲城跡は新幹線で分断されている

金曜日, 8月 13th, 2010

清洲城は、織田信長の居城で、かの桶狭間へはこの城から出陣した。
信長公記によれば、出陣の際には敦盛の舞を舞ったが、それが本当であれば、この城で舞ったのである。(信長公記は、信長が京都に上洛したあたりから、実時間で書かれたが、 桶狭間のような初期の頃に関しては、思い出しながら書いたであろうから、信憑性はいま一つである。)
一つ前の記事で、常磐線が小塚原の刑場を分断していることに触れたが、
東海道新幹線も、清洲城を分断しているのである。
清洲城は、名古屋駅から京都方向に(新幹線で)2,3分の場所である。
新幹線の西側は、公園になっている。南側に川が流れている。
東側も公園であるが、今は、城が建っている。昔はなかった。
その城は、ちゃちな感じがして、僕はあまり好きではない。

江戸時代の処刑場

金曜日, 8月 13th, 2010

江戸時代、江戸には、処刑場がいくつかあった。鈴が森、小塚原(骨ヶ原:こずかっぱら)、板橋、あと八王子である。それぞれ、街道沿いの江戸の入り口である。

鈴が森     ー東海道
小塚原(骨ヶ原) ー日光街道
板橋      ー中仙道
八王子     ー甲州街道

こういう場所を処刑場にしたのは、見せしめのためである。
それでは、どのくらい処刑していたのであろうか。
江戸幕府は、1年で、約1000人殺していたらしい。
一日当たり、3,4人である。たいした取り調べもしていなかったであろう。
まあ、人権に関しては、レベルの低い政府であった。

吉田松陰は小伝馬町の牢獄で処刑されて、その死体は小塚原(骨ヶ原)に捨てられた。小塚原(骨ヶ原)の死体には、野犬やカラス等がむらがっていたようである。
小塚原(骨ヶ原)は、隅田川の川原であり、今で言えば、南千住の駅のそばである。
刑場で処刑された人を供養するために回向院が建てられた。
その回向院は常磐線によって南北に分断された。
だから、常磐線は、刑場の上を走っていることになる。
分断された南側の回向院は延命寺となった。刑場跡はこの延命寺にある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%88%91%E5%A0%B4

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E5%90%91%E9%99%A2

日本の国力(昔の)

金曜日, 8月 13th, 2010

或るイラン人が、日本人に向かって「今度やったら勝てるよ」と言ったらしい。
これは、「今度アメリカと戦争をしたら、勝てるよ。」ということなのである。
イランは、今アメリカとぶつかっている。隣りのイラクやアフガニスタンはアメリカと「戦って」いる。だから、冒頭のような発言が出てくるのであろう。
しかし、今の日本に、アメリカと戦うなどという意図は、まったくない。
「今度やったら勝てるよ」は、今の日本の国力(現在のアメリカのGDPは日本のGDPの約2倍強)なら勝てるよ、ということであろうか。
それでは、昭和16年の国力はどうだったのであろうか。
日本:アメリカ=1:5である。
僕は、もっと差が大きいと思っていた。

昭和16年の国内総生産GDP
日本     2045.2
イタリア   1501.6
ドイツ    2582.2
アメリカ   11002.1
イギリス   3444.3
フランス   1298.1
単位は億ドル
http://www.eurus.dti.ne.jp/~freedom3/ww2-gdp-sai-axx.htm

8月15日が近づいてきたが、、

土曜日, 8月 7th, 2010

日本の学校では、第2位次世界大戦で日本は周りの国にひどいことをしたと教えている。
まあ、基本的にはそうであろう。しかし、少しは良いことをしたのである。

以下、

http://www.nipponkaigi.org/1700-rekishi/1720-01sekainohyoukai.html

より引用。

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■イギリス
◎アーノルド・J・トインビー 歴史学者
「第2次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」
(1956年10月28日/英紙「オブザーバーL)

■アメリカ
◎ジョイス・C・レプラ コロラド大学歴史学部教授
「日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味をもっていた。いまや真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮び上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地支配復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。」    (「東南アジアの解放と日本の遺産」)

◎ジョージ・S・カナヘレ 政治学博士
「日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事のなかで、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えたことである。…このような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。」    (「日本軍政とインドネシア独立」)

■オランダ
◎サンティン・アムステルダム市長 現内務大臣
「本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現した。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わった。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成した。日本の功績は偉大であり、血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむことを止め、…その誇りを取り戻すべきであります。」
(1985年日本傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時行われた市長主催の親善パーティの歓迎挨拶)

■タ イ
◎ククリット・プラモード 元首相
「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体だれのおかげであるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意された日である。さらに8月15日は、われわれの大切なお母さんが、病の床に伏した日である。われわれはこの2つの日を忘れてはならない。」

■マレーシア
◎ラジャー・ダト・ノンチック 元上院議員
「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。」

◎ガザリー・シャフィー 元外務大臣
「日本はどんな悪いことをしたと言うのか。大東亜戦争で、マレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか3カ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが、英軍は再び取り返すことができず、マレーシアは独立したのだ。」

◎ザイナル・アビディーン 歴史学者
「日本軍政は、東南アジアの中で最も政治的意識が遅れていたマレー人に、その種を播き、成長を促進させ、マラヤにおける民族主義の台頭と発展に、大きな〝触媒″の役割を果たした」

■インドネシア
◎モハメッド・ナチール 元首相
「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は、私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。」

◎アラムシャ 元第三副首相
「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り、幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの投智なスパイ網と、強靭な武力と、苛酷な法律によって、圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し、感謝感激したのは当然である。」

◎サンバス 元復員軍人省長官
「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍とともにオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。」

◎プン・トモ 元情報相
「日本軍が米・英・蘭・仏をわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。われわれは白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。…そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった。そして実はわれわれの力でやりたかった。」         (昭和32年の来日の際の発言)

■インド
◎ラグ・クリシュナン 大統領
「インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。」      (昭和44年、日本経済新聞)

◎ハビプル・ラーマン 元インド国民軍大佐
「ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本がはぐくんだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない。」

◎グラバイ・デサイ インド弁護士会々長
「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお蔭で30年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している。」
(1946年の軍事裁判に出廷した藤原岩市氏らに)

■スリランカ
◎l・R・ジャヤワルダナ 大統領
「往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。…当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである。」 (1951年、サンフランシスコ対日講和会議演説)

■ミャンマー
◎バー・モウ 元首相
「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから、日本ほど誤解を受けている国はない。」 「もし日本が武断的独断と自惚れを退け、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、商機関や鈴木大佐らの解放の真心が軍人の間にもっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北も、アジアの半分、否、過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から奪い去ることはできなかったであろう。日本のために惜しむのである。」(「ビルマの夜明け」)

■シンガポール
◎ゴー・チョクトン 首相
「日本軍の占領は残虐なものであった。しかし日本軍の緒戦の勝利により、欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は、自分たちも欧米人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後15年以内に、アジアの植民地は、すべて解放された」(「諸君!」平成5年7月号)

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上の発言の中には、典拠がしっかりしてないものもある。また、鵜呑みにはせずに、その前後の発言もあわせて理解すべきものもあるだろう。文脈を無視して、一番都合の良い部分だけを取り出しているかもしれないからである。さらに、発言の状況も考慮せねばならないだろう。

とはいうものの、上の発言からわかるように、第2次世界大戦で、アジアの植民地が欧米から独立するのを日本が助けたことがわかる。が、このようなことがらは学校では教えない。日本は、第2次世界大戦で良いこともしたといってよいのではないだろうか。